露けし身を隠す為に寄った樹の下で、彼はその女と出会った。
女の瞳もまた、烟るような露に濡れ。
霞む視線は彼を見つめてはいるが、そこではない遠く遥かなものを見据えているようで。
だが、ふいに正気に戻ったかのように、その瞳は輝きを取り戻した。
その強い輝きに魅入られて。
真正面から偽りなく注がれる眼差しは、どこか痺れにも似た愉悦を齎す。
「私は白龍の…神子です」
視線と同じく偽りなき言葉は、彼の退屈な日常を遥か彼方へと消し去った。
「ほう…」
銀髪短髪の玲瓏たる男は、酷薄な笑みを浮かべたまま微動だにせず佇む。胸に沸き立つ感情は、戦場で血刀を振るう時にも似て。
クッ、と声に出して笑うと、男は雨に濡れた装束を翻した。細身だが、決して脆弱ではないしなやかな身体は、舞うように向かいに佇む少女の側に近付く。
「…面白い…」
男の囁きは雨音のように緩やかで。
だが、その声に隠されたものは優しさではなく。
雨粒とて月日を経れば岩盤を貫くように、その穏やかな口調には鋼の強さが宿っていた。
「クッ…良い目をしている…。お前の目は心地よい火花…」
戦場であれば、さらに輝きを増す至高の瞳。
「お前が源氏で…良かったぜ……」


通り雨が結んだ縁(えにし)は絡み合う。
有川将臣は潮風が通る濡縁から夜空を眺め、幽かな溜息を付いた。
熊野を訪れた彼ともう一人の同行者は、熊野の港町である勝浦に宿を取っていた。宿の構造は広壮な門構えの内に、間口三間奥行三間の平屋建ての棟を設けた板取の宿である。良く言えば簡素、悪く言えば見窄らしいそこで寝起きする事を、彼の同行者は快く思っていなかった。
彼は夏の暑さが疎ましい、と言い、昼間はまともに動こうともしない。
久々にふらりと外に出たと思ったら、予想外の珍客を連れ立って戻ったのには心底立腹した。
「くそっ……」
将臣はこめかみを押さえ、苦渋の面持ちを浮かべる。
大切に守りたいと思っていたものが、易々と奪われてゆく辛さに彼は歯噛みする。
ふと、潮風が薙いだ。
月が雲に隠れ、代わりに燐光を放つような銀髪の青年が彼の側に佇む。
「ここに御座しましたか…兄上」
「お前か……知盛」
知盛、と呼ばれた青年は、僅かに口元を吊り上げ笑う。
「随分とお嘆きのように見えますが…それ程までに、あの女が気に掛かる…と?」
「…お前には関係ないだろう。あいつは、俺の大事な…幼馴染みだからな」
「幼馴染み…ほう……」
嘲りを含んだ言葉に眉を寄せ、将臣は知盛を強く睨む。
「あいつには手を出すな。これは…命令だ」
クックックッ…と可笑しそうに笑うと、知盛は懐から蝙蝠(かわほり)を取り出し、その身を扇ぐ。蝙蝠(かわほり)とは夏扇の事であり、開いた時の形が蝙蝠の翼と似ている事で付いた異名である。
「良い音がする…ここは……」
彼は目を閉じ、海岸から聞こえる波音に耳を傾けた。その様はどこか愉快げで。
「…真に良い気分だ…。今宵舞うなら、青海波と言った所か……」
扇ぐ扇がくるりと空を舞う。
青海波とは、波の寄せ返す様を袖の振りで表す、優美で華やかな二人舞である。
将臣は今日、舞台の上で舞う知盛と望美の姿を思い起こし、僅かに顔をしかめた。
呼吸を合わせ、互いの背を合わせ舞う二人の姿は、まるで夢のように艶やかで。
現(うつつ)に残された自分は、天女を思う愚かな男のように思えてしまう。
再びクックックッ…と笑い、知盛は冷笑を浮かべる。
「さては…灼いた…か?」
「…っ!!」
バシッ、と彼は知盛の蝙蝠(かわほり)を弾き落とす。夏風にひらりと舞う扇は、まるで夜空を舞う蝶のようにも見えた。
「…因果なものだ……貴方は守りたいと願い、俺は……壊したいと願う…」
「知盛っ!!…お前……」
スッ、と身を躱し、知盛は床に落ちた扇を拾う。武人でもあり楽人でもある彼の身のこなしは、とても優雅で隙が無い。戦場では二刀を持ち、血煙の舞台で舞う男、それが彼である。
「命にも まさりて惜しくある物は 見果てぬ夢のさむるなりけり…」
(命より惜しいのは、夢の途中で覚めてしまう事である)
クッ…と艶麗な笑みを浮かべ、平知盛は夢想する。
次の逢瀬は戦場、海原と死人が転がる現世(うつしょ)の彼岸であろう。
将臣は身を翻し、彼を残し棟へと戻る。気配が消えると同時に、彼は再び蝙蝠(かわほり)を月に向けて仰いだ。スッ…と裾を翻し、扇と共に袖を揺らしながら知盛は舞う。
トクン…と打つ胸の鼓動は波音にも似て。
「次の逢瀬…楽しみにしている…神子……」
その囁きと共に浮かんだ幽かに笑みは、恍惚と悦楽の笑みであった。

逢瀬は泡沫に消え、遠くに聴こえるのは彼女の声。
良い幕切れだと彼は笑い、船上からその身を投じる。
その顔は清清しく、彼岸に向かう者とは思えぬ程で。
「…死なないでっ!!」
そう叫ぶ声に幽かな笑顔を返し、彼は最後に一言残す。
「じゃあ、な」

時空を超え、再び巡り会った想い人の姿に涙を浮かべ、望美は彼の姿を凝視した。
露けし二人の身は次第に近付く。彼の記憶に自分が存在しない事を思い起こし、彼女は濡れた目蓋を瞬かせた。
そして願う。今度こそ死なせはしない、と。
望美は自らを名乗り、彼を強く見つめる。
彼はあの時と変わらぬ、緩やかな声で囁いた。
「クッ…良い目をしている…。お前の目は心地よい火花…」
交わされる視線は強く激しく。
女は守りたいと願い、男は殺したいと願う。
時は繰り返され、互いの願いは交差し。
胸に沈む感情をぶつけあい、二人は烟るような露に濡れる。
すべては驟雨(しう)落ちる日の出来事であった。





会員No.47 森岡さまより頂きました。

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作者さまの後書き

驟雨(しう)は、急に降り出し、強弱の激しい変化を繰り返しながら、急に降り止む雨の意味。簡単に言えば夕立ちです。結ばれた縁は血のように真っ赤な赤い糸なのかも、と思う知盛×望美。作中の和歌は古今和歌集から。微妙に似臭い知盛で失礼。

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森岡さまのHPにてお持ち帰り創作として公開されている作品を頂きました!

熊野での二人の出逢いを・・・舞を舞うシーンを思い出し、そして、壇ノ浦での・・・・・
もう涙を流しながら読ませて頂きました。
舞のシーンでの将臣の反応の続きが読めて、嬉しいです(笑)←気になっていた私σ(^_^;)

とても素敵な作品を本当にありがとうございました。

2005/10/03




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